昭和44年2月7日 朝の御理解

御理解第33節「お供え物とおかげは、付きものではないぞ」



 今日はここでおかげ、おかげは付きものではないぞ、とこう仰るおかげという事。ここで使われておるおかげとはどういうような意味のものであろうか。そこんところを今日は頂いてもらいたいですね。おかげとは。
 金光様のご信者は、もう全ておかげおかげと、こう挨拶のように申しますね。ここにきお参りさせて頂いてもおかげ頂きましたという。ね、もう全てのことを、だからもう本当はその全てのことをおかげを頂きましたと本当にいえれ、おかげと実感されなければ、そのおかげという事は、言えないと私は思うけれど。それがこう合言葉のように、おかげ頂きましたと、あっおかげ頂きましたですね、と。もう本当に挨拶のようにおかげ頂きましたということを、いうなら、沢山使います。
 ところがここのおかげということには、やはり本当の影、ね、影のようなもの。いわゆるそれを、まぁご利益というような風にも申します。ね、ご利益。
 ところが、えー、ここにお供え物とおかげは付きものではないぞ、と仰るのですけれども、ただお供え物をしただけでもおかげを受けておるという事実がある。これは金光教では、こういう風に申しますけれども、私が知っておる幾つかの宗教は、例えば病気なら病気。あー、これは2万円お供えしなきゃおかげ頂かん。
 おかげ、お供えするするとが、大きけりゃ大きいだけおかげ頂く。そこでもう、本当にさぁ医者が見離した病人なんかは、もう(家でも?屋敷でも?)助かりたいと思うて、やはりお供えをする。
 やはりその助かっておる事実もそこにあるのです。ですから、金光教だから、あのお供えをだけでは助からんという事というのは、やはりお道の信心でも、お供えという事によって、助かるという、いわゆるおかげを受けるという事実はもう沢山ある。
 福岡の、三代の吉木、吉木「辰二郎?」偉い先生がおられましたが、もう4、5年前亡くなられました。その先生は、もういよいよ医者が難しいという時にですね、自分の持っておる、(よき?)自分の持っておる衣類、着物、洋服、着物を全て、(これをして、したから、まぁ家も屋敷も?)という訳にはいかなかった訳ですよね。
 ですから自分の(な?)になっておるところの(よき?)自分の持っておる衣類。これを全部衣類などはお金に替えられ、用金通帳はそのままお供えをされた。それから助かられた。
 もう本当に奇跡的に助かられた。二度目の命を、いわゆる再生。二度目の命を頂かれたという事実、そういう事実も、まぁこういう例は沢山ありますよね、金光教でも。
 ですからここでお供え物とおかげは、付きものではないぞと仰るおかげはね、そういう命が助かるとか、ね、物事が成就するとか。そういうことではないことが分かります、ね。
 商売繁盛の、例えば久留米のあるご信者さんは、えー、久留米の現在総代をしておられます、方で、とにかく二百円お供えすりゃ二百年(がた?)。四百円お供えすりゃ四百円(がた?)。もうこりゃおかげは絶対と信じきってござる。
 ね、ですからお話の(ほう?)に参られますとですね、あんた達はいくらずつお供えしよんなさんの、百円。なら去年は、去年も百円。そんならあんただんいっちょんおかげ頂きよらんじゃんのちいうて、いうな生き方です。
 ね、去年百円お供えしよったら、今年はあんた二百円お供えするごとおかげば頂かにゃこて。それで二百円のお供えしよったならば、五百円のお供えが出来るごつ、おかげ頂かにゃ、おかげ頂くとこう信じきってあるですね。だから、そういう事実もあるのです。
 ですからね、そういういわゆるご利益的おかげならば、お参りだけでもおかげ頂きゃ、ね特にお供えによっておかげが受けられることが分かりますけれども。お供え物とおかげは付き物ではないと仰る、このおかげとは、教祖様はどういうような意味をもってここを仰ったんだろう。
 ね、私共が願うところは、そのお供え物と付き物ではないおかげを願わせて頂かなければいけん。お供え物とは、ね、お供え物とは、ね、付き物ではないおかげ。ここに言うておられるおかげ。ね、そういうおかげを頂きたいと願わにゃいけません。
 そんなら、どういうものと、そのここで言うておられるおかげというのは、付き物なのか。御理解30節に「神を信ずる者は多いが、神から信じられる者が少ない」とこう言われるですね。
 神を信ずる者は多いが、だから神様を信じることが出来るということからです、頂くおかげ。これは私は、ご利益だと思うです。しかし神様が信じれれるようになるという事だけでも大変なことですよね。
 神様が絶対だと。信じれれるということは、本当にもう助かっておると思うんですけれども、その神を信ずる者は多い。だから、信心しよると、いわゆるおかげを受けるですね。やっぱ真ありゃ徳ありでおかげ頂きますよと。お参りせてごらんなさい。おかげを頂きますうよと、と人にでもいえれるくらいに神様が信じれれるようになる。
 初めの間は、ござるやら、ござらんやら分からなかった。いわゆる半信半疑でお参りさせて頂きよったら、段々おかげを頂いて、その神様が信じれれるようになった。いわゆる信心になっていた。入り口、ね、信ずる心が生まれて来た。
 ね、信ずる心が生まれて来た。ここの辺のところが、ね、信心して、そのおかげを受けるというのは、人の良いのと悪いのは別物と仰るのは、この辺のことだと思う。ね、あの人はと、人から後ろ指を例えば差されるような人のでもね、信心しておかげを受けるという。なら悪人でも、自分一人でも、おかげを受けられる。
 だからいくら善人であっても、仏様のような人であっても、ね、信心しなければおかげの受けられない、というおかげの、ね、いわゆるご利益は受けられん。やっぱりすがる心にならなければおかげは受けられん。
 だからそういうところ、ね、神を信ずる者は多いと仰るがその多い信者、ねいわゆる、これは段々沢山あると思うですよ。ね、いわゆる神様を信ずる。おかげは絶対と思うておかげを信ずる。ところが神に信じられる者が少ないと仰る。
 ね、この辺から、いわゆる信心になってくる。ね、信心とは信心。信ずる心から入ってきて、真心ね、真心。神心【かみ心】神心【しんじん】。いわゆる真心の厚い人にならせてもらう。ね、いうなら真の厚い人にならせてもらう。いうなら、神様がお喜び頂けれるような事を何時も心の中に思い続けれるような人。
 ね、神を信じられる、神に信じられる氏子とは、私はその信心。いわゆる信ずる心から、次にはいわゆる真心が出来てくる。段々真心を追求して、真心とは真心とはと、真心の信心を追求させて頂く、そういうようなところからね、私は、神に信じられる氏子になってくるんじゃないかと。
 ね、ですからまぁ皆さんの場合などは、もうおかげの体験は持っておられるのですから、ね、神様を信じて大体、私は神様ちゃ自分は頂かんでも隣の人を見たら分かる。隣の人の話を聞いたら分かる。はー神様ちゃそげな(よか御方ですか?)。神様ちゃそういうことにまでおかげを下さる方ですかと。隣近所の、ならここにお参りをしてきておる人達の、例えばその、がそれを実証してくれます。ね。
 ですから、その神様を信ずることが出来るようになったところからです、だから皆さんは、もうここんところを一つ卒業して、神に信じられる氏子に一つならなきゃですね。ここで私は、そのおかげは付きものではないと仰るのはね、こればっかりはいくらお供えしたからというて頂けない。
 神様から信じられるおかげというのは、ね、これはいくら、それこそ先祖参りをしたところで、ね、どんなに沢山のお金を積んだところで、なるほどこのおかげは受けられない。
 私はここで言うておられるおかげとは、そういうことだと思うんです。ね、お供え物とおかげは付きものではないとこう。それこそ千里箱積んだところで、ね、おかげは受けられない。
 そこでなら、神に信じられると仰るから、神に信じられる氏子とは、ね、神様に信じられる信者氏子にならせて頂くために、お互いが本気で信心の稽古をさせて頂くようになるところから、一つね、神に信じられる。
 えー、久留米の初代の石橋先生は、あー、御神徳のことを神様のご信用じゃと仰った。ね、さっき私が申しました、福岡の吉木「辰二郎?」先生がまだお若い時。久留米の初代がまだ、ご壮健の時分。
 久留米におい出られてから、石橋先生。もうその頃は、石橋先生が中部で、もういわば半身不随のようにしておられた時代であったそうです。ですから吉木先生が、あるお参りの時に、石橋先生のところにお出でられて、石橋先生って、あなたのお徳をね、私に分けて下さい。そして私があなたの代わりに、ね、人の難儀の助かることの為に一生懸命御用して回りますから、あたなのお徳を別けて下さいっちいうてその、言われたそうです。
 そしたらしばらく面目しておられた。本当に分けられるもんなら、分けいてやろうと思われたんでしょうね。本気でいうならば、吉木先生がそういわれるから、本当に自分の頂いておる神様から頂いておる御神徳をです、真剣に求めておるこの人にも渡したい。本当にこの人が自分の代わりに、いわゆるお徳を受けて御用してくれりゃ有り難いと思われたんでしょう。しばらく面目をしておられた。
 そして、ぽつんとその仰ったことがです、「そうじゃなぁ、御神徳とは神様のご信用じゃから」と仰ったそうです。ね、「そうじゃなぁ、御神徳とは神様のご信用じゃからな」と仰った。ね、だからやろうとして、子供だからとしてやるわけにはいかん。
 私が頂いております、これはもう初めの頃、これはあの、当時は、あのこれは私だけに下さった言葉だったんですけれども、最近は時々それを皆さんに聞いてもらうんですけれども、えー、それをこうご信心といわれたこともあったくらいですよね。
 あのー、はっ、それはですね、私にあの筆を持てというて下さると、筆を持つと筆がね、こうやって動いて字になるといった時代があったんですよ。二十年ぐらい前。その時に、あの筆を持たせて頂きました、筆じゃなかった鉛筆でした。鉛筆を持たせて頂きましたらね、ずーとそれ、こうみみずがほうたように字になって行くんですよ。
 それに、どういう風に頂いたかというと、これはあのなんですかね、天理教の教祖なんかは、それを御筆先というたですね。御筆先。教祖の時代もやっぱりおありになっておられる。
 ★私はそういうことが、あー、ありました。絵でも何でも、こう自分の思いがけない絵を書いて。私じっとこうしとくと、下さったという時代がありましたがね。その時にあの、その、みみずのほうたようなその字がどういう風に書いてあったかというと、んー、徳は子ならず、ね、徳は子ならず。あっ、徳は子ならずか。徳は・・・、徳はでしたかね、子はおりおりの信心、ということを頂いたですね。
 えー、徳は血ならずでしたかね。ご無礼しました。徳は血ならず。ね、子はおりおりの信心と。(いと、失礼いたしました?)ね、例えば徳というものはね、例えば血がつながっておるからというて、そこに行くもんじゃないて、実際は。
 ね、その子供でもね、その子供が、おり、そのおりおりのね、そのおりおりの信心によって受けるものだという。ね、その子供でも神様のご信用が頂けれるようなね、教祖様は子孫にも残るのは神徳じゃと仰っておられますけども、そこんところまで説明が大変ちょっと、こんがらがりますけれどもね。
 確かにお徳は残るんです。けどその徳を現すことはです、出来んのです。子供でも孫でも。その徳を現すことの出来るためには、やはり力を頂けなければならない、神様のご信用を頂かなければ、それを現すことが出来んのです。
 ですから、そういう、例えば神様に信じられる氏子ということ。ね、だから、神様から信じられる氏子になるために、私共は、ね、そこに焦点をおいての信心にならなければならんということになります。
 今朝から私、御神前に出らせて頂きましたら、大きな雪だるまをね、ずーっとこうやって、コロコロ転がして。もうそれこそ、あの、どんどん儲かっていきよる時には、まるっきり雪だるまのごと太っていくという風に申しますでしょう。
 ★丁度そんな感じで雪だるまが、どんどんこうやって転がしながら大きくなって行くところを頂くんですよ。これがね、信心のない者、または信心の薄い者がです、只ご利益だけを願い。只儲かりさえすりゃ良いというてですね、こうやって転がしていきよるような苦労ですね。
 だから段々段々、財産は太っていく。雪だるまのように太っていく。ね。ところがこれはやっぱり太っていくばっかりでね。やはり目鼻が付かなければ駄目だと。次には頂くことがね、目鼻が(付かんかと?)段々。
 ね、例えばことが、例えばだいたい起動に乗った自分の、ん、時には使うでしょう。もうだいたい目鼻だけは付いたとこういうでしょう。ね、お徳を頂けれる、神様のご信用が頂けれる目鼻だけは付けとかにゃいかんです。
 その目鼻が付かなければね、お互い御霊様になった時にです、いわゆる目鼻なしの雪だるまのような事になるんですよ。今日は、もうここんところを皆さんに頂いてもらいたいとこう思うのです。
 ね、今まで私が申してまいりました事は、お供え物とおかげは付き物ではないぞと。けれども、確かにお供え物をすれば、ね、(いっさがた?)ご利益の方を、おかげは頂くという事実がある。
 これは何派何宗というような誰にも、それを看板のようにしておるところすらある。思いきったお供えをすりゃ、やはり医者でも見離された病人でも助かるというようなことが、事実があるのにも関わらず、教祖はこう仰ったおられるのは、ならここでいうおかげとはどういうものか。
 確かにだから、これは本当に、それこそ千里箱積んだところでです、どれだけ先祖参りをしたところで頂けないおかげ。そのおかげとは、神様のご信用を買う事は出来ない。神様のご信用は、ね、神様のご信用を頂かせて頂くための、それを簡単に言うと、信ずる心から真心、神心とこう申しますがね、その真心から、神心を目指しての信心。そこに神様のご信用が頂けてくるようになる。
 これはもう銭金じゃないということ。買えない。そこで私共が信心させて頂いてです、神様に信じられる氏子に本気でなりたいとこう、願わせて頂くところから、いうならばおかげの、本当ここでいうところの、ここで言うておられるところのおかげの目鼻が付くことになるのです。
 それまでは、やはり転がしてさえいきゃ、参りさえすりゃ、お供えさえすりゃ、ごろごろ雪だるまのように大きゅうなっていけれるわけなんです。
 ところがこれはね、この世で只大きくなって行くだけで、あの世には持っていけないもの。あの世での目鼻が付かないもの。あの世であんた、目鼻の付かない御霊様になったらどうするですか。目鼻だけはつけとかにゃいかんですばい。
 ね、目鼻をつけとかにゃいかん。それには、もう一つ、一つね、大きくいわば、転がして大きく(ならした?)ところの、丸い雪のだるまからです、これにもう一つ上にこう置かなきゃいけんでしょうが。まぁいっちょ。ね、やや小さいとを(もう?)その上に重ねにゃいけません。
 そこから、私は真の信心が出来て来る。真の信心を目指す。ね、それに、例えばね、炭団なり墨なりを持っていって、目鼻を付ける。そして始めて、そりゃ雪だるまということがいえるのである。
 ね、信心してお徳を受けると。ね、しかもあの世にも持っていける。あの世の、あの世で、目鼻の付いた御霊様にならせて頂くためにも、この世で目鼻を付けさせて頂いとかなければいけない。
 信心の目鼻を付けよう。今日は私はそこんところを、皆さんに聞いて頂くために、この前後のことも申しました。ね、おかげの目鼻じゃありません。ね、御神徳を頂く、神様のご信用を頂かせて頂く信心の目鼻をつけなければいけません。
 ね、その信心の目鼻を付けなければならない、そういうおかげは、いわゆるお供え物では頂かれない。ね、千里箱を積んでも、こればっかりは頂けない。私共はその気にならせてもらわなければ、これはそこから、神に信じられる氏子が少ないと仰せられる。
 その少ない方の部類の信者氏子にお取立てを頂かせてもろうて、あの世にまいりましてもです、いうならば、目鼻の付いた御霊様として、私はおかげの頂けていけれる土台というものをです、ね、この世にある時にしっかり頂いとかなければなりません。
 ただあの世だけではない。この世にも残しておける。同時にこの世でも、そのお徳の潤うところ。ね、いわゆる恵まれ続ける生活がそこにあるのです。その恵まれ続けれる。あの世までも恵まれ続けれるおかげを目指して、お互いが一つ本気でそこに取り組ませて頂かなきゃいけないですね。
 今日はね、その雪だるま、例えば皆さん本当にもう、(がらーば?)儲かっていきよる人がありますよね、信心のなかったっちゃ。ね、又信心が薄かっても、お参りはせんばってん、ごろごろおかげ頂きよる私だんという人達もありますよね。
 けどもそれは雪だるまを転がして段々それが、それこそ、雪だるまのように大きくなっていきよるだけであって。これでは真実の、ここで言うておられるところのおかげの目鼻は付きません。
 ね、私共はそこに気付かせてもらう。そこに一つ発心させてもろうて、ね、本気で神様に信じられる氏子にお取立て頂くことのために、私共が真心を込めた信心。ね、あのね、そういう信心が分かりだしますとね、いわゆる真に有難いというものが頂けてくるようになるです。
 ね、信心が楽しゅうなってくるです。信心が喜ばしい、お参りが有り難い。ね、ここんところが有り難いでしょう。はー、なら信心、そういう特別な修行を(さる?)特別のご信用を頂くためには、特別な信心させてもらんならな、きついこっじゃろう、しるしいこっじゃろうとこう思うけれども。そこんところを目指させて頂くようになると、今話しますようにね、ね、はーこれが真に有り難いという心であろうかと。心が喜ばしい。ね、お参りが楽しゅうなる。
 あーあ、何時まで参らなんじゃろうか、というようなものとは全然違う。ほんなこっておかげ頂きたいばっかりに参りよるとばい。というような信心からね、そういう楽しい有り難いという信心を身に付けさせてもらうということがです、神様のご信用を頂くことなのです。どうぞ。

梶原 佳行